ホラー映画は好きなのに、なぜか「怖い」と感じられない――そんな不可思議な体質にさいきんになって悩まされている。映画ブログを書いていると、世間が恐怖で盛り上がっている波に自分だけ乗り切れず、どこか取り残されたような感覚を覚えることが増えた。ホラーというジャンル特有の面白さを十分に受け取れていないのではないかという“損した感”も正直ある。しかし一方で、この体質が映画の見え方に独特のバイアスを生み、別の角度から作品を味わえるという側面も確かに存在している。本稿では、そんな「ホラーを怖がれない自分」との向き合い方について整理してみたいと思う。

1. 私はホラーを怖がれない――その理由と“損した感”
映画ブログを書き始めて気づいたことがある。さいきん、特に感じていることは、私はどうやら「心霊系ホラーに恐怖を感じにくい体質」であるという事実だ。ホラー映画のランキングで“最恐”と評価されるような作品でも、なぜだか恐怖心が動かない。もちろん、映画体験そのものは嫌いではないのだが、恐怖という刺激が入ってこないぶん、どこか物足りなさがある。
「恐怖を感じない」とか、なんだか中二病っぽいし痛いことを言っているのはわかるのだが、しかし本当のことなのだ。これは映画レビューブロガーとして、致命的なのではないだろうか。
自分なりに考察してみた。
— のんびり映画帳@映画ブログ (@NonbiriEigacho) 2025年11月27日
ワイはあまり心霊的な恐怖を感じない。だからホラー映画を観ても恐怖を感じずアドレナリンが出ない。
よって、「面白かったー!」ってならない。みたいな厨二病みたいな結論になってしまった。
かんじょーないからー!かんじょーないから!#映画好きと繋がりたい https://t.co/roAEvCsdYB pic.twitter.com/pOyEtom0sY
ホラー映画を観ても「怖い」という感情はほぼ湧かない。あっけらかんとしている。ジャンプスケアのような驚かせるような演出には反射的に肩が跳ねるが、それは単なるびっくりした反応であって、恐怖とは異なる。
お化け屋敷に入っても、まったくおんなじだ。暗闇の雰囲気に吞まれたり、背筋をじっとりと冷やすような本質的な恐怖が訪れることはほとんどない。皆が「ワーワーキャーキャー」言っているなかで、私は遠巻きにそれを眺めているだけだ。
ただし、演出の巧みさや構図、見せ方の工夫は冷静に評価できる。それでも「恐怖を味わえないぶん、同じ料金を払っているのに楽しめていないのではないか」という損失感はどうしても生じる。
人間は得しないことよりも、損をすることの方をより嫌がると聞くし。
例えば映画『8番出口』を劇場で観たときのことである。鑑賞後、観客が席を立つ中で、学生らしきグループが「意外と怖かったなー!」と話しているのが聞こえた。しかし私の感想としては「そうかな?」というのが正直なところであった。思い空気や不穏さは確かに感じたが、それが恐怖として私に届いたかと言われると、やっぱり首をかしべるほかなかったのだ。
一方で、いわゆるヒトコワ系のスリラー作品や、人間の狂気を描くサスペンスは普通に怖い。これはたぶん、実際に起こりそうだという“リアルさ”が恐怖として自然に刺さるからだと思う。フリマアプリや日常の出来事を題材にしたスリラーなどは、むしろ心霊系よりもずっと怖く感じてしまう。
また、私は高所を人並みに怖がるし、絶叫系アトラクションのような、身体的な恐怖はしっかりと感じる。感じると言うか、怖くて乗れない。絶対に嫌だ。商業ビルや高層タワーによくあるガラス床などは、本気で無理である。
なんで皆は絶叫マシンに乗れるのか不思議でならない。
しかし心霊系ホラーだけは、何を観ても恐怖のスイッチが入らない。私は大学も工学部だし、典型的な理系気質である。幽霊や妖怪を信じてはいないし、無神論者でもある。それでも、そんな私でもホラー映画を“怖く楽しみたい”という欲求はあるのだ。怖がれない自分が悪いわけではないとわかってはいるが、それでも「みんなのように恐怖で盛り上がりたい」という憧れは確かにある。
2. 怖がれないと映画体験のバランスが崩れる?
ホラーを怖がれないことで生じる不便さ?というのもおかしな話だが、その成り行きは意外と大きい。例えば、みんなでホラー映画を鑑賞し「いやー怖かった!」と盛り上がる場面にも自然と参加できない。X(旧Twitter)で作品の感想が飛び交い、ワーワーと騒がれている中でも、私の感情はそこにおいつかず、やっぱりただ遠目に流れを眺めているだけになってしまう。周囲よりも冷静すぎるため、どうしても温度差が生まれてしまうのだ。
「なに冷めてんの?」とか言われちゃうし。
そしてこの”冷静さ”が、ホラー映画のレビュー評価にも影響してしまう。恐怖というジャンルの核となる要素を自身で体験できない以上、作品への没入感がどうしても薄くなってしまい、結果として評価が低めに出やすいのだ。
ホラー映画とは「怖さ」が前提のエンターテインメントのハズだ。恐怖が高まる中でヒヤヒヤしたりゾワッとしたりするその過程こそが愉しみのはずだが、私にはその波がホラー映画ではほぼ存在しない。そのため、鑑賞後の解放感や昂揚感も生まれにくく、ストーリー展開さえこの目には単調に映ってしまう。普通の人が感じる恐怖の起伏が欠落しているため、どうしても作品全体がのっぺりとした印象になる。
コメディで笑えなければ低評価になるのと一緒で、ホラーで怖くなければやっぱり低評価となるわけだ。
その一方で、私は感動系映画には極端に弱い。すぐに泣くし、泣かされる。それゆえ、感動映画の評価は自然と甘くなる傾向になる。感情の使いどころが偏っているのだということは自覚しているのだが。
このような偏りは、人それぞれ異なるものだろうと思う。格闘技経験者なら、アクション映画の動きにリアリティを感じられずに楽しめないかもしれないし、警察官ならサスペンスの捜査描写の粗が気になるんじゃないだろうか。専門性や体質が映画の受け取り方を大きく左右するわけだ。まぁ別に、統計をとって調査したわけではないので断定はできないが、あながち間違いではないだろう。
3. “怖がれない”は本当に損なのか──結論
しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたい。ホラー映画を怖がれないということは、本当に損なのだろうか。一般的には「怖がれたほうが映画を楽しめる」というイメージが強く(実際そうだと思う)、ホラー耐性のないほうが得をしているように語られがちである。というか私は語った。しかし、その前提が必ず正しいのか、一度立ち返り疑ってみよう。
我思う、ゆえに我あり
確かに、恐怖というエンタメを丸ごと受け取れないのは残念遺憾ではある。作品が仕掛けている“恐怖のデザイン”──音、暗闇、演出の間合い──それらの効果を最大限に感じられないのは事実だ。だが、そのかわりに得られるものもある。
それは、作品を過度な恐怖に邪魔されず冷静に判断できるという利点だ。ストーリーの構造、映像の工夫、テーマ性の扱いといった要素を、恐怖によって目を背けず、感情に揺さぶられずに見通せる。これは、鑑賞の精度という点ではむしろ強みになりうる。
考察とかに活かせる、ハズ。
また、映画との”相性”という問題も無視できない。たとえホラー映画が自分に合わなかったとしても、それは作品のクオリティが低いからではなく、ジャンル特性と自分の感受性が嚙み合っていないだけの場合が多い。
むしろ、ジャンルと自分の距離を理解したうえで評価できるというのは、成熟した映画鑑賞の在り方であると言えないか。自分が得意とする感情領域、不得意な領域を把握しているというのは、作品を観る際の大きな指針になるのだ。
ぶっちゃけかなり審美眼は磨かれてきたと思う。
結局のところ映画とは、”感じ方の多様さ”が前提で成り立つ文化である。怖がれないからと言って、映画体験が劣っているわけでも、損をしているわけでもないと信じたい。そこで得られる体験の方向性が、他の人とは少し違うだけなのだ。同じ映画を面白いと感じる人がいたり、面白くないと感じる人がいるように。
そうなのだ。だから私は、こう考えるようにした。
怖がれなくても、それはそれで映画という世界を別の角度から楽しめているのではないか。
私はそう受け止めているし、そのほうが自分にとって健全である。あなたはどうだろうか?
― イカキムチ (id:dayli9ht) ―