韓国映画のんびり感想レビュー*

映画レビューブログ「韓国映画のんびり感想レビュー*」。韓国映画KORIA専門感想レビューブログです。

韓国映画『よりそう花ゝ』感想――『おくりびと』と似て非なる、乾いた葬儀映画だった

『よりそう花ゝ』は、2019年公開の韓国のヒューマンドラマ映画。監督・脚本・コ・フンにより制作された。
生きる希望を失っていた葬儀屋の親子が、隣人との交流を通して再び前を向いていく姿を描いた作品である。
葬儀屋を営むソンギルは、事故で下半身不随となった息子ジヒョクと暮らしている。仕事が減り、経営難に苦しむ中、隣室にウンスクと娘ノウルが引っ越してくる。心を閉ざしていた親子は、明るい母娘との交流を通して少しずつ変化していく。やがてジヒョクの旧友の死をきっかけに、親子は“人を見送る意味”と向き合うことになる。
ソンギルをアン・ソンギが演じる。共演はユジン、キム・ヘソン、チャン・ジェヒほか。
よりそう花ゝ

よりそう花ゝ

  • アン・ソンギ
Amazon

韓国の葬儀でよく目にする白と淡いピンクの紙花


韓国映画『よりそう花ゝ』は、葬儀屋を舞台にした韓国ヒューマンドラマ。"死"に最も近い場所で、孤独を抱えた人々が少しずつ変わっていく姿を静かに描いた一作だ。経済的にも精神的にも追い詰められた父子が、隣に越してきた母娘との交流をきっかけに、止まりかけていた日常に変化が生まれていく。

主演は韓国映画界を代表するベテラン俳優 アン・ソンギ。事故で下半身不随となった息子と二人で生きる葬儀屋ソンギルを熱演している。事情を抱えながら娘と新生活を始めようとするウンスク役を ユジン、車椅子生活を送る息子ジヒョク役を キム・ヘソン、ウンスクの娘ノウル役を チャン・ジェヒ が務めた。

本作の核心は、葬儀という場を通して"残された側の感情"に丁寧に寄り添う視点にある。派手な演出や劇的な展開はなく、孤独・貧困・家族の断絶といった現実的なテーマを背景に、生きづらさを抱えた人々の日常をじっくりと映し出す。静かな余白の多い作風が、かえって深い余韻を残す韓国映画だ。

▶ 読みたいところだけチェック

『おくりびと』とは似て非なる映画――葬儀映画なのに、浄化されない理由

あらすじから本作『よりそう花ゝ』は、日本映画『おくりびと』みたいな作品かと思っていたら違った。もっと遠くから見ているというか、どこか乾いた印象だ。

『おくりびと』は、「死者を美しく送り出すことで、生者が救われる」方向の映画だ。納棺は"尊い儀式"として描かれ、遺族も主人公も、その儀式によって感情を整理し、癒やされていく。つまり、

  • 死に意味を与える
  • 葬儀に価値を与える
  • 見送る行為を肯定する

映画なのである。

一方、『よりそう花ゝ』は、その"美しい意味付け"をかなり剥がしている。

そもそも、故人の葬式を挙げたい・見送ってあげたいというのは、生きてる側の勝手なのである(そう私は思っている)。生前に「こういう葬式にしてほしい」「海洋散骨がいい」「宇宙葬がいい」と話していたならまだしも、大抵は認知症でもう意思表示ができないとか、そもそも自分が死んだ後のことなど考えていないとか、若くして亡くなったなら死ぬことすら想定していないだろう。たとえ葬儀をしたとしても、本人はすでに死んでいる。自分の望んだとおりの葬式だったかなんて、死んだ人にはわかりようがない。

私は無宗教で無神論者だからこういう考えが強いのかもしれないが、宗教においても似たような視点はあるらしい。祖母の四十九日に、お坊さんからこんな話を聞いた。

「仏教そのものが死者の救済だけでなく、残された人間がどう生きるかに重心を置いて発展してきた面があるので、四十九日は、亡くなった人より、残された人間が死を受け入れるための時間なのですよ」

これは、この映画に流れる冷たさ――現実感――にかなり近い。少々話がずれたが、つまり私が言いたいのはこういうことだ。この映画は、死者を起点にしながら、生きている人間を中心に描いている。

作中で亡くなる人々は、基本的に「人生の主人公」として描かれない。むしろ見えてくるのは、

  • 遺族が後悔している
  • 遺族が孤独に耐えられない
  • 遺族が"ちゃんと見送った"と思いたい
  • 生きている側が区切りを必要としている

という、生者側の事情ばかりだ。

つまり『よりそう花ゝ』は、「死者のための葬儀」ではなく、生き残った人間が自分を保つための儀式として葬儀を描いているように見える。

だから『おくりびと』みたいな浄化感が薄い。

『おくりびと』は、「死を丁寧に扱えば、人は救われる」という映画だ。

しかし『よりそう花ゝ』は、「どれだけ丁寧に見送っても、死んだ本人は戻らない」という現実から、あまり逃げない。

そこが、観終わったあとに妙に乾いた感触が残る理由なのだろう。

 

息子ジヒョクはなぜ必要だったのか――「死んでいないのに止まっている人」という装置

※ここからネタバレを含みます!

なんかいつもと違う感じでレビューを書いている。韓国映画『よりそう花ゝ』が不思議な映画だったということもあるが、それを自分なりに整理したいのだろう。私のブログだ。私の書きたいように書く。

さて、物語には下半身不随の息子ジヒョクが登場する。交通事故に遭い、生きる希望を失って、毎日死にたいと願っている。父親のソンギルも、もはや息子とどう接していいのかわからない。

しかしここで疑問が生じる。息子が下半身不随になったことと、ソンギルの仕事が葬儀屋であることは、一見まったく関係がないように思える。なぜ物語に登場させたのか。

おそらくジヒョクの存在は、単なる"かわいそうな境遇"ではなく、この映画における「死」と「生」の距離感を成立させるための装置なのだと思う。

直接的には「葬儀屋の仕事」と噛み合っていない。むしろ重要なのは、彼が"死んではいないが、人生が止まってしまっている存在"として配置されている点だ。

『よりそう花ゝ』には、実際に死んだ人が何人も出てくる。だが映画は、死者本人にはほとんど興味を示さない。焦点は常に「残された側」にある。その構造の中でジヒョクは、

  • 生きている、しかし自由に動けない
  • 未来を想像しにくい
  • 父親も接し方を失っている

という"半分止まった人生"の象徴になっている。つまりこの映画は、「完全な死」と「社会的・精神的に止まった生」を並列で見せているのだ。

そしてソンギルは毎日、他人の死を処理する仕事をしているのに、自分の息子の「生」には向き合えていない。

ここが重要だと思う。

『おくりびと』なら、死者を丁寧に扱うことで生きることの尊さへ繋がっていく。しかし『よりそう花ゝ』は、他人の死を見送り続けても、身近な人間を救えるわけではないという無力感を正面から見せてくる。

だからジヒョクは"葬儀映画だから必要"なのではなく、ソンギルの停滞・家庭内の諦め・生きているのに閉じている状態、を可視化するために存在しているように見える。

さらに言うと、この映画は「死」そのものより、"孤立した人間"を描いている節がある。死者も孤独。遺族も孤独。ソンギルも孤独。ジヒョクも孤独。だから息子の存在は「障害者だから必要」なのではなく、生きているのに社会から切り離されている人として配置されているのだろう。


そこにウンスク(ユジン)が隣に越してくる。彼女が登場した瞬間、「オ・ユニ(役名)!」と叫んでしまった。韓国ドラマ『ペントハウス』でソプラニストの夢を絶たれた母親オ・ユニを演じ、ドロドロした群像劇の中で一際存在感を放っていた人物だ。私の中で印象が深い。

www.netflix.com

オ・ユニのことは置いておいて、重要なのはウンスクもまた"死"を背負っている人物だという点である。ただし彼女の場合、葬儀屋のように「他人の死を処理する側」ではない。DVを受け続けた末、正当防衛ながらも夫を死なせてしまった、"死を発生させてしまった側"にいる。

ここで映画はかなり明確な対照構造を作っている。

  • ソンギル:毎日他人の死に触れ、感情を切り離して処理している。しかし家庭は止まっている。
  • ウンスク:死を「仕事」ではなく「当事者」として抱えている。それでも娘と前へ進もうとしている。

つまり、ソンギル=死に慣れすぎて生きる感情が麻痺しているウンスク=死を経験したからこそ生きようとしているという対比だ。だからウンスク母娘が隣に来たことで、ソンギル父子の"止まった時間"が少しだけ動き始める。

ただ、この映画はそこを劇的な再生にしない。そこが『おくりびと』と決定的に違う点だ。

普通の映画なら、父子が希望を取り戻し、新しい家族の形になり、生き直しが始まる方向へ行きそうなものだ。しかし『よりそう花ゝ』はそこまで踏み込まない。この映画はかなり一貫して、人生は簡単には回復しないという温度感で作られているからだと思う。

だからラストも「救済」ではなく、完全に閉じていた人間が少しだけ他人と繋がれた、くらいで止めている。

私がこの映画に"乾いた感じ"や"途中で終わった感じ"を抱いたのは、その抑制の強さから来ているのだと思う。

 

何も解決しないラスト――それでも「寄り添う」ことだけはできる

上で「途中で終わった感じ」と私は書いたが、本当に途中で終わる。「え?ここでエンドロール?」と目が点になった。

ソンギルは大手葬儀社との契約を切られ、経済的な問題は何一つ改善していない。ウンスクは正当防衛の方向で扱われてはいるが、すぐ社会復帰できるわけでもなく、娘とも引き離されたままだ。ジヒョクは外へ出ようとする意志を見せたものの、玄関の先には階段が立ちはだかっている。

何も解決していない。

ただ、それは考えてみれば当然なのかもしれない。この映画に出てくる人間たちは最初から"人生が壊れかけている側"の人間ばかりだからだ。零細葬儀屋の経営難、交通事故による下半身不随、DVと生活苦。どれも、ラスト数分で解決できるような問題ではない。

あのラストは「希望」を描いているようでいて、実際には"現実は何も変わっていない"ことをかなり冷静に突きつけてくる。

ただ、完全な絶望でも終わらせていない。

この映画が描いているのは「問題解決」ではなく、"それでも他者と寄り添うことはできる"という、ごく小さな救いなのだと思う。タイトルが『よりそう花ゝ』なのも象徴的だ。ある意味で、寄り添うことしかできない人間たちの話なのである。

登場人物の誰も、誰かを劇的に救えるわけではない。貧困も、障がいも、暴力も、社会の仕組みも消えない。それでも、隣にいることだけはできる。

だから本作は、よくある「困難を乗り越えて再生する感動作」というより、"社会に押し潰されそうな人間たちが、それでも生きることをやめない映画"として観た方が、実態に近い気がした。

つまり『よりそう花ゝ』は、"再生"を描いた感動映画ではなく、社会に追い詰められた人々がかろうじて他者と繋がろうとする社会派ヒューマンドラマなのだと思う。

 

『よりそう花ゝ』はこんな人におすすめ――ただし"癒やされたい夜"には向かない

本作『よりそう花ゝ』は、万人向けではない。救いのない映画だ。そこははっきり言っておきたい。ただ、刺さる人にはかなり刺さる映画だと思う。

  • 『おくりびと』が好きだが、もっとリアルな体温の映画も観てみたい人
  • 感動の押しつけがなく、静かに終わる映画が好きな人
  • 家族関係・貧困・孤立といった社会的テーマに関心がある人
  • 韓国映画のドロドロ路線ではなく、地味で誠実な作品を探している人
  • 「ラストがすっきり解決しなくてもいい」と思える人

逆に、泣けるヒューマンドラマや分かりやすいハッピーエンドを求めているなら、かなりしんどい思いをする可能性がある。覚悟して観てほしい。

ブラック企業が過労死を生む救いのない映画レビューはコチラ
 

www.kfilm.biz

 

韓国映画『よりそう花ゝ』総評――地味だが、誠実な映画だった

正直、観終わった直後は「これ、どう評価すればいいんだ?」という気持ちになった。感動したわけでも、スカッとしたわけでも、泣いたわけでもない。ただ、何か引っかかりが残っている。

それがこのレビューを書いた理由だと思う。

この映画は、見た目よりずっと考えさせられる映画だ。派手さがないぶん、余韻の置き場所に困る。でもそれが、この映画の誠実さでもある。

「救済」も「感動」も安易に与えてくれない。ただ、人間が他人の隣にいることの意味を、静かにずっと問い続けている映画だった。

アン・ソンギは言うまでもなく、ユジンの抑えた演技も見どころだ。華やかさはないが、画面に嘘がない。そういう映画である。

“壊れていく女性”を描く韓国映画レビューはコチラ
 

www.kfilm.biz

 

映画『よりそう花ゝ(2019年)』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)

  • 監督:コ・フン
  • 出演:アン・ソンギ, ユジン, キム・ヘソン, チャン・ジェヒ
  • 公開年:2019年
  • 上映時間:103分
  • ジャンル:ヒューマンドラマ/li>
▲ TOPへ戻る

当サイトはアマゾンアソシエイト・プログラムの参加者です。
適格販売により収入を得ています。

© 韓国映画のんびり感想レビュー*