ヤクザの組長、刑事、連続殺人鬼が交錯する壮絶な追跡劇を描いたクライムアクションである。
ヤクザの組長チャン・ドンスは、何者かに襲撃され一命を取り留める。犯人への復讐を誓うドンスは、連続殺人事件を追う刑事チョン・テソクと手を組み、凶悪な殺人鬼を追い詰めていく。
チャン・ドンスをマ・ドンソク、チョン・テソクをキム・ムヨル、殺人鬼をキム・ソンギュが演じる。
ヤクザの親分を、こんなに応援したくなる映画があるとは思わなかった。
韓国映画『悪人伝』は、マ・ドンソク演じるヤクザの組長・ドンスが、ある夜に連続殺人犯に襲われるところから始まる物語だ。
復讐のため、ドンスは刑事テソク(キム・ムヨル)と手を組み、殺人鬼を追い詰めていく。
「刑事と犯罪者が手を組んで、もっと悪い奴を追う」という設定自体は、聞いたことがある人もいるかもしれない。
でも本作が面白いのは、ドンスが最後まで一切善人にならないところだ。
人を殴り、脅し、暴力で物事を解決する。紛れもない悪人のままである。
なのに、なぜか気づけば「もっとやれ」と思ってしまっている自分がいた。
この記事では、キャストやあらすじを紹介しつつ、ラストまで踏み込んだネタバレありの感想・考察をまとめていく。
「なぜ悪人を応援したくなるのか」。それを、私なりに掘り下げてみたい。
※本レビューはネタバレを含みます!
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『悪人伝』は、なぜ悪いヤクザを応援したくなるのか
ヤクザ VS 刑事 VS 殺人鬼。韓国映画『悪人伝』である。
”あくにんでん”なのか”あくじんでん”なのか、正直今も分からない。まぁどっちでもいいわ。
「強面なのにラブリー」、「マ(마)」+「ラブリー(러블리)」のマブリーことマ・ドンソク主演の映画だ。
2019年に韓国で公開されるとカンヌ国際映画祭のミッドナイト・スクリーニング部門で正式上映され、本国では興行収入ランキング初登場1位、観客動員300万人超えの大ヒットを記録した作品でもある。
日本では2020年7月17日に公開。監督・脚本はイ・ウォンテだ。
しかし本作の彼には、ラブリーさのかけらもない。
韓国俳優では断トツに人気も知名度も高い彼だが、私も大好きだ。
これまでも刑事、悪霊をなぎ倒すおふざけキャラ、ヤクザなど、さまざまな役を見てきた。
正直、めっちゃヤクザ役が似合っている。
彼をモデルにした『龍が如く』シリーズの生みの親・名越稔洋氏による新作ゲーム、『GANG OF DRAGON』が作られているくらいだ。
2025年12月の「The Game Awards」で発表されたばかりで、舞台は新宿・歌舞伎町。マ・ドンソクをモデルにしたキャラクター「シン・ジソン」が主人公を務めるが、2026年時点でもSteam向けに発売時期は未定のままだ。
話を『悪人伝』に戻そう。
ヤクザの親分・ドンスは、連続殺人犯に襲われる。
これは偶然であり、最初からドンスを狙ってのものではない。たまたま出会っただけだ。
そうして殺人鬼に復讐するため刑事テソク(キム・ムヨル)と手を組み、犯人を追い詰めていく。
本作はヤクザ映画ではない。
ヤクザと言えば任侠、仁義、親兄弟(血の繋がりではない)などをテーマに”漢”が描かれがちだが、実際のヤクザはそうでもないらしい。
卑怯で姑息、程度の低いチンピラの延長みたいな感じと聞く。つまり悪だ。そこに大義名分はない。
今回、ドンソクが演じるのは、残酷で卑怯者、そんな「悪い」ヤクザであるドンスである。
映画冒頭からリアル人間サンドバッグを殴ってボコボコにしているし、下っ端を殴れば歯も引きちぎる。
正々堂々、組同士で喧嘩せず、殺人鬼が残した凶器を使って対立する組の親玉を殺し、殺人鬼の犯行に仕立て上げたりとやりたい放題だ。
「使えるものは何でも使う。バレなきゃいい」
という発想。実際のヤクザっぽい。
最後の最後までドンスは悪人である。
しかし、そんな悪人なのに、なぜか応援をしてしまう。
序盤では目を覆いたくなるような暴力に「ひでぇ」と感じる。
ところが殺人鬼が登場すると、同じドンスの暴力に「もっとやれ」と思うようになってくる。
ドンスを正当化するわけじゃないが、捕まってもひょうひょうとしてる殺人鬼にイラっとしたから、はよ痛い目に合わせたれと思った。

ドンスが殺人鬼と同じ刑務所に来た時も、「あ、これからボッコボコにされるんだ。やった!」って思った。
悪人を善人に変えるのではなく、もっと救いようのない悪人を置くことで、観客の暴力への評価を反転させる構造。
私は暴力を肯定しているわけではない。むしろ否定するし平和主義者だ。ほとんどの人がそうだろう。
しかし映画だとそれは快感に変わってしまう。
「ドンスが善人に見えたから応援した」わけじゃない。
ドンスって、普通に考えたら相当な悪人である。人を殴る、脅す、ヤクザとして暴力で物事を解決する。
ところが、殺人鬼に襲われた瞬間から、「こいつを絶対捕まえてくれ」と観客がドンス側に立ってしまう。
しかもドンス自身も、
「俺を刺した奴を俺が捕まえる」
という、ものすごくヤクザらしい理屈で動いている。「正義のために犯人を捕まえる」じゃない。
だからドンスは最後まで別に善人にはならない。
ドンスが悪人なのは分かってる。
でも、それ以上に殺人鬼のほうが「こいつは本当にクズだな」という感情を引き起こす作りになっている。
特に、殺人鬼は捕まった後も反省したり怯えたりするんじゃなく、「死刑にはならない」と高を括っている(法律で死刑は存在するが、韓国は事実上の死刑廃止国)。
そこに対して「お前、もっと痛い目見ろよ」という感情が出てくる。
だから最後の刑務所の場面も、
「正義が悪を裁く」
というより、
「いや、これはドンスにやらせていいだろ(笑)」
という、観客の復讐心を気持ちよく満たす構造になってるわけなのだ。
そしてこれは、マ・ドンソクの存在もかなり大きいと思う。
もし同じ展開を別の俳優がやったら、ここまで「やった!」とはならなかった可能性が高いだろう。
ここに、マブリーの魅力が詰まっているのだ。
ちなみに本作はハリウッドでもリメイクが進行中で、パラマウント・ピクチャーズが製作、シルヴェスター・スタローンがプロデューサーを務める。
主演はマ・ドンソクが続投し、監督には『アクアマン』のジェームズ・ワンが就任した。
企画発表から数年を経ての続報だけに、公開が待ち遠しい。
実話?モデル事件とタイトルに込めた意味を考察
韓国映画『悪人伝』は、実話ベースの映画である。上映開始早々からそう明記されるくらいだ。
ただし、「ヤクザの組長と刑事が手を組んで連続殺人犯を追った」という事件がそのまま起きたわけではない。
監督のイ・ウォンテによると、本作の着想となったのは、2005年2月から12月にかけて忠清南道・天安(チョナン)市一帯で起きた「天安連続殺人事件」だという。
この事件では4人組の犯人グループにより9人が殺害され、身代金目的の誘拐や強盗、窃盗など計18件もの犯行が重ねられた。天安の人々を恐怖に陥れた大事件だ。
映画と実際の事件との共通点は、大きく2つある。
ひとつは、犬の飼育場のオーナーが被害者になった点。もうひとつは、追突事故を装って被害者を襲うという犯行の手口だ。作中でも同じ手口で殺人が行われる。
一方で、劇中のようにヤクザが被害者になった、あるいはヤクザと刑事が手を組んだという記録は、実際の事件には残っていない。
とはいえ、1990年代から2010年代にかけて韓国では暴力団への取り締まりが強化され、大組織が解体されて新興のヤクザ組織が乱立し、しのぎを削り合っていた時期でもある。
監督はそうした時代背景と実際の事件を組み合わせ、「もし殺人犯に襲われたヤクザが、自分を襲った犯人を捕まえようとしたら?」というフィクションを重ねて、本作の物語を作り上げたのだろうと私は予想する。
参考:
The Gangster, the Cop, the Devil review – pulpy thriller packs a punch | Crime films | The Guardian
そうして、作中に登場する刑事のテソク(キム・ムヨル)は、事件を最初から連続殺人だと踏んでいた。
しかし彼は捜査指揮官ではなく、上層部も別々の事件として取り合わなかった。
そこへドンスがたまたま刺されて事件に巻き込まれる。テソクはこれを利用しようとし、ヤクザと手を組もうとするわけだ。
映画としてはありそうな話だが、現実にあったら大問題だろう。とはいえ暴力団と警察が金銭でつながっていたという話もよく聞く。あながちゼロではないのかもしれない。いや、さすがにないか?
本作の原題は韓国語で『악인전』。ローマ字表記だと「Aginjeon」で、IMDbなどでは「Akinjeon」とも表記される。
漢字にすると「惡人傳」で、日本語の『悪人伝』はそのまま意味を取ったタイトルだ。
英題は『The Gangster, the Cop, the Devil』。
つまり、
悪人伝 → Gangster(ヤクザ)・Cop(刑事)・Devil(悪魔)
という、かなり内容をそのまま表したタイトルになってる。
まず表面的には、
- Gangster → チャン・ドンス
- Cop → チョン・テソク
- Devil → カン・ギョンホ
これは当然だ。
でも映画を観ていると、だんだんその境界があいまいになっていく。
殺人鬼のカン・ギョンホは当然「Devil」だが、彼は最初から最後まで一貫して殺人鬼。
逆にチャン・ドンスはヤクザなのに、上述したとおり観客からすると妙に頼もしく見える。
テソクは刑事なのに、ヤクザのドンスと手を組む。さらにドンスが殺人鬼を痛めつけることまで承知のうえで、二人を同じ刑務所に入れる。
つまり、殺人鬼を法で裁く一方で、法では裁けない部分をヤクザの暴力に委ねている。
最後まで観ると、「正義」と「悪」の境界が、思った以上にあやふやなのだ。
刑事のテソクは一応「Cop」だけど、捜査方法がかなり強引。
犯人を捕まえるためなら、ヤクザと手を組むことも厭わない。
つまり、
CopがGangsterの力を利用してDevilを捕まえる。
という構図なのだ。
普通の刑事映画なら、「刑事=正義」「ヤクザ=悪」「殺人鬼=もっと悪」という三段階になりそうなところを、この映画はそうしない。
むしろ、悪人と悪人が、もっとヤバい悪人を捕まえる、という構造になっている。
だから「悪人伝」というタイトルが効いてくる。
私は、ここが一番面白いと思う。
タイトルの「悪人」は、単純に殺人鬼だけを指しているわけじゃない。
ドンスはヤクザだから悪人。テソクだって法律違反の強引な捜査をする、完全な善人ではない。殺人鬼のギョンホはもちろん悪人。
つまりこの映画は、
「悪人の中にも程度がある」
という話にも見える。
ドンスは人を殺すことも厭わないヤクザだけど、無差別に罪を犯す人間ではない。
一方ギョンホは、理由もなく人を殺す。
だから観客の中で、「ドンスは悪人だけど、こいつよりはマシだ」という妙な線引きが生まれる。だから気持ちが良い。
そしてラストがさらに面白い。
ここまで来ると、ドンスとテソクは同じ犯人を追っていた仲間なのに、最後にはまた別々の道に戻る。
ドンスはヤクザ。
テソクは刑事。
二人が手を組んでいたのは、あくまで「Devilを捕まえる」という目的が一致していたから。
つまり、善人になった悪人と、悪人になった刑事の物語ではない。
二人とも自分の場所に戻る。ここが結構重要だと思う。
だから私はこの映画を、
「正義が悪を倒す話」ではなく、「悪人同士の利害が一致した結果、もっと大きな悪が倒される話」
として見た。
そしてその構造だからこそ、観客は最後までヤクザのドンスを応援してしまうのだ。
『悪人伝』ラストの意味とは?見せない演出が生む「ニヤッ」とする余韻
クライマックスで、殺人鬼は証拠不十分のため法で裁けるのか怪しくなってくる。
その犯人のひょうひょうとした表情に私がイラつき始めた頃、ドンスが証言に立ち、犯行を立証する。
ドンスはヤクザとしてさまざまな罪を犯しており、裁判で証言すれば対立する組長を殺した過去もバレて、刑務所行きは確定的だ。
それでもドンスは証言する。自分が刑務所に送られようとも、殺人鬼に復讐したかったのだろう。
しかしドンスの報復は、それだけでは終わらない。
見せないからこそ生まれる、ニヤッとする余韻。
刑事のテソクは、ドンスに裁判で証言してくれと頼む。
テソクもヤクザと手を組み違法な捜査をした身だが、それでも一線は越えない。私刑ではなく、あくまで法で裁こうとする。
しかし証拠不十分のままでは、獲物を取り逃がしてしまう。
だからドンスに証言を頼むのだが、ドンスはある条件を出す。
奴と同じ刑務所に入れてくれ
結果、殺人鬼と同じ刑務所に送られるドンス。
「まさか」という殺人鬼ギョンホの魂の抜けたような表情と、ドンスが殺人鬼を見つけてニヤニヤと笑みを浮かべる顔がたまらない。
すでに述べた通り、ドンスは人間サンドバッグを殴ったり、歯を折ったりと、かなり残忍な人物として描かれている。
でも人間サンドバッグにされたのは「ヤクザの縄張りを荒らされたから」、歯を折ったのは「見せしめ」だった。
暴力に任せはするが、しかしそれには(ちゃんとはしてないが)理由のあるドンス。そんな男が、理由もなく殺人を犯す人間を相手にすれば、そして自分を刺した人間と対峙したら、それをどう料理するのか。
もう半殺しじゃすまないだろう。ありとあらゆる苦痛を与えるに違いない。
映画ではそんなシーンは一切描かれない。でも、それを想像できてしまうから良いのである。
改めて、人間という生き物は、私を含めて残酷なのだと思い知らされる。

序盤の人間サンドバッグや歯を折るシーンには「うわぁ、ひでぇ」と思ったのに、ラストではこれから起こるだろう惨劇に期待している自分がいる。
人間って不思議だ。本来なら残酷なはずのに、怖さや胸糞悪さではなく「やった!」という妙な爽快感が残る。
繰り返すが、映画は刑務所で実際にボコボコにするところを見せない。ここが結構いやらしい。
観客の頭の中で、「ドンスなら何をする?」を勝手に想像させる演出になっているのだ。
「半殺しじゃ済まないだろうな」「ありとあらゆる苦痛を与えるんだろうな」——つまり実際に描かれていない残虐行為を、観客自身が頭の中で完成させている。
そして、その想像に対して「いい気味だ」と思ってしまう。ここに人間の残酷さが確かに表れている。
面白いのは、序盤に「ドンスの暴力はひどい」と感じていたことを、観客自身がちゃんと覚えている点だ。
この映画は「暴力は悪い」と観客に教え込んでいるわけではない。
むしろ「こいつの暴力は嫌だ」→「こいつへの暴力なら気持ちいい」という感情の変化そのものを体験させている。
そしてその変化を起こしているのは、法律でも倫理でもなく、「こいつはもっと酷いことをした」という観客側の感情だ。
だから私の「現実のヤクザらしい」という感想にも繋がってくると思う。
ドンスは最後まで善人になっていない。悪人のままなんだよ。
ただ、その悪人が持っている暴力性を、観客が「今回はこいつに使っていい」と思ってしまう。
「ドンスがこれからこいつをボコボコにするんだろうな。ざまあみろ。楽しみ」
という感情。一歩引いて「自分は残酷な感情を抱いている」と観察していたわけじゃない。普通に映画を観ていて、その瞬間は自然と殺人犯への制裁を期待していた。
このラストの余韻は、単純な「悪が裁かれてスッキリ」ではない。
実際には何も見ていない。
ドンスと殺人鬼が同じ刑務所に入る。ドンスが殺人鬼を見る。殺人鬼もドンスを見る。そうして映画が終わる。
なのに観客の頭の中では、「ああ……こいつ、この後どうなるんだろうな(笑)」と勝手に続きを作ってしまう。
しかも、その想像の内容はかなり残酷なはずなのに、怖くない。嫌な感じもしない。むしろニヤッとしてしまう。
ここが面白い。
ホラー映画なら「このあと殺される……怖い」という想像をさせて終わる。
胸糞映画なら「こんな酷いことが起きるのか……嫌な気分だ」という重い余韻を残す。
でも『悪人伝』は、
「このあと、こいつ絶対ひどい目に遭うぞ(笑)」
という、ちょっとした期待感で終わる。だから「余韻」なのに、観客の感情が重くならない。
序盤では「うわぁ、ひでぇ」と思ったのに、最後には「やった!」に変わる——この反転が、実に綺麗につながっているのだ。
たぶんこの映画は、観客に「暴力は悪い」という倫理観を一度ちゃんと植え付けたうえで、その倫理観を最後にちょっとだけ裏切らせているのだろう。
「ドンスみたいな暴力は嫌だ」
↓
「でも殺人鬼にはやってほしい」
↓
「見せなくていい。想像するから楽しい」
というところまで、観客を持っていく。
だからラストの「ニヤッ」は、映画が私に与えた感情としてかなり特殊だと思う。観客自身がその残酷な想像を楽しんでいることにこそ、この映画の面白さがあるのだ。
『悪人伝』はこんな人におすすめ!
ここまで語ってきた内容を踏まえて、こんな人には特におすすめしたい。
- マ・ドンソクの「圧」を浴びたい人:とにかく彼の存在感がヤバい。殴る前から勝ってる、っていうあの感じを味わってほしい。
- 単純な勧善懲悪に飽きた人:「正義が悪を倒す」じゃなく「悪人同士が利害で手を組んで、もっと悪い奴を潰す」っていう構造が新鮮。刑事とヤクザの奇妙な共闘に唸るはず。
- 後味の悪い胸糞映画は苦手だけど、スカッとはしたい人:残酷な想像はさせられるのに、なぜか気分は重くならない。むしろニヤッとして終われる、珍しいタイプのバイオレンス映画だ。
まとめ|悪人が悪人を裁く痛快バイオレンス
韓国映画『悪人伝』は、ヤクザの親分・ドンスが、自分を刺した殺人鬼への復讐のために刑事と手を組む話だ。
でもこれは、単なる「悪vs悪」の対決映画じゃない。
ドンスは最後まで善人にならないし、テソクも清廉潔白な刑事じゃない。
それでも観客は、いつの間にかドンス側に立って「もっとやれ」と思ってしまう。
序盤は「うわぁ、ひでぇ」だったはずの暴力が、殺人鬼というもっと救いようのない悪が現れた瞬間、気持ちよさに変わる。
この感情の反転こそ、私が本作で一番面白いと思ったポイントだ。
しかも映画は、その先の暴力を一切見せない。見せないからこそ、観客が勝手に想像して、勝手にニヤッとする。
正義でも倫理でもなく、「こいつはもっと酷い」という観客自身の感情が物語を動かしている。それが『悪人伝』というタイトルの意味なんだと思う。
マ・ドンソクの圧倒的な存在感がなければ、この構造はここまで成立しなかっただろう。
ヤクザなのに、なぜか応援したくなる。そんな不思議な読後感を、ぜひ味わってみてほしい。
映画『悪人伝(2019年)』の作品情報まとめ(監督・キャスト・配信情報など)
- 監督:イ・ウォンテ
- 出演: マ・ドンソク, キム・ムヨル, キム・ソンギュ, ユ・スンモク, チェ・ミンチョル
- 公開年:2019年
- 上映時間:109分
- ジャンル:アクション
